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Special Interview

インタビュー第3回は、松井さんご自身の少年時代、留学時代などのエピソードをお伺いしました。なかなかマスコミ等にも公表されない、興味深いお話です。
(第2回は
こちら 第4回はこちら




―ロボットが一番人間の潜在能力を引き出す様な、そういうあり方ってとても素晴らしいですね。

それはね、テクノロジーの最大の功績なんですよね。僕の中でのロボットと人間との関わり合いのコンセプトというのはね、チュチュというようなコンセプトなんですよ。


―チュチュ


チュチュというのはバレリーナがはく、チュチュのことです。あれは、すごく小さい存在なんだけどあれがあるかないかで、バレリーナはバレエをやってるかやってないかって意識が変わってくるんです。見ている方も変わってきます。チュチュがあることによって、バレリーナの動きは、より美しく見えるでしょう?

ロボットというテクノロジーは本来は人間の可能性っていうものを引き出すものなんですよ。ですから、ロボットをやることによって人間がもっともっと美しく動いて見えるように、今までのプリマドンナの動きだけじゃないものが、見えるようなロボットにしていくとそれがすごく、本来のテクノロジーの使われ方、非常に人間とテクノロジーの上下関係じゃないんだけど、美しい関係というのがそこで見えるかなという風に思ってますね。


―いつごろからそのようなお考えをお持ちになったのでしょうか?

実際に僕が、それをやらなきゃいけないなと思ったのは、MoMAに行ってからなんです。MoMAっていうのは20世紀を象徴する美術館なんですよ。それでPINOをMoMAに展示したときに、そこに僕が持っていった概念っていうのは21世紀への概念だったんだけど…20世紀のね、概念の中に封じ込められた事件っていうのがあって。

MoMAってピカソの絵とかモネとかマネとかもあるし、それこそ僕の好きなバレンタインのタイプライターだとか、最初のマッキントッシュとか、そういう20世紀の名作が並んでいるんですけど、要は僕、その時に悟ったんです。ここは20世紀の物の墓場だと思った。生まれてきたばっかりの子供を墓場に連れて行く親はいないわけですよ。

そこにPINOを持っていって…。それ自体は非常にデザイナーとしては光栄なんだけど、やっぱり僕は持っていった先が違ったかなと思いました。向こうがPINOに用意したのは、ガラスのケースでした。それはすごくお墓に入れられちゃった様な寂しさがあったんです。PINOというロボットはそういう中で鑑賞される対象ではなくって、人と戯れているところが存在として一番、美しくあるところかな、と思ったから。

だから美術館でのガラス越しのモノとしての冷たい関係を取り除いた、人と物とが触れ合っているところのステージからデザインしないと、ロボットは活きないのかなあ、というように思いはじめたんですね。

それで次のプロジェクトからは実際に森下洋子さんにお願いに行って、”バレエダンサーとロボットを共演させる”とかね、そういうようなプレゼンテーションの仕方に変えてるんですよ。

でも、いきなりオペラ座ってのは無理ですし、そういったしなやかな動きはロボットもまだ30年くらいかかると思ってますので、今できる技術と、今ある資質で、そういう範囲の中で、できるベストを一つ一つやって行かないといけないなと思っています。




■松井さんについて


―どうやってそんな、"松井さん"が出来上がったのでしょうか?

子供のときは、近所に芸大の先生がいたので5つくらいからそこの絵画教室に行ってまして、学校終わるとすぐ…他のクラスの人は大体グローブを持って出ていくけど、僕はすぐアトリエに行って、絵とか描いているタイプだったんです。で、ずっと毎日絵を描いていて。まあ決して暗かったということではなかったんだけど、自分の主義、主張みたいなものをいつも絵にしていたり、描いたりしていました。

だから学芸会とかそういうときは僕の出番で、舞台のセットから、話のコンセプトから、お面とか衣装のデザインまで全部僕がやるわけですよ。お面なんかも全部作って。

僕は自分の家のリビングルームってのは自分の画廊だと思ってましたから(笑)
学芸会が終わった、お面とか舞台のいろんな装置とか衣装とかを全部、それが終わった2週間くらいは家に展示をして、母親の友達とかが3時のお茶にくると、僕は「これはこういう意味があるんだ!」とかって一つ一つプレゼンテーションをしてたわけですよ(笑)

それから例えば新聞係なんかもやって、書体とかはまだ子供だから組めないから、色んな書体の本とかを見て自分で書いていたんですよね。明朝体みたいなやつとか、何々新聞とか、新聞のロゴとかね、あとは学校のクラスの例えば3年2組なら3年2組っていうロゴのマークのデザインだとかやったりとか。

そういう非常にクリエイティブといえばクリエイティブな子どもではあったんです。けど転機はね、やっぱり小学校4年の時です。家の大改造、いわゆる改築工事っていうのをやって、そこで大工さんに逢ったっていうのが非常に大きかったですね。

―大工さんとの出逢いが、ですか?

僕は兄弟3人なんですけど、それまでは3人同じ部屋だったのが、その時から一人一人部屋をもっていい、という事になって。じゃあ僕は絵を描いたり、プラモデルをつくったり、自分だけの快適空間ってのが非常に欲しかったから、本屋に行って調べたりだとか、あとは建築の本が結構家にあったのでそういうのずっと見て調べました。

特に外国の本、アメリカのティーンエイジャーの本があって、そこにはミッキーマウスの電話とかあってね、「なんだ!これは!」とか思って(笑)

そういうものをいろいろと調べて、大工さんにこういうイメージ!こういうイメージ!っていうように僕は徹底的に大工さんと一緒につくったんです。最後に壁を塗るのも全部自分でやりましたし。

それで、空間ができたら今度は机。僕はよくある一般的な学習机のデザインがあまり好きではなくて。手塚治虫さんの部屋とか藤子不二雄さんの部屋の本とかを見るとね、大体二人掛けで座れる机なんですよね、横に長い机なんですけど、アシスタントと漫画家が横に並んで掛けられるんですよね。漫画家の先生が絵を描いて、その横でアシスタントがベタ塗りとかするわけ、で、そういう机がほしいと思ったので自分で大工さんに設計図を描いて、つくってもらいました。まあアシスタントはうちの弟なんだけど(笑)


―お二人で漫画を描いていらっしゃったんですか(笑)

弟の椅子と僕の椅子とがあって、そこで漫画を描いてました。大工さんにはデザインとかをする机も作ってもらって、そこで自分の絵も描いたんだけど、その絵を入れる額も気に入ったのがなくて、これもつくってもらいました。他にはドアも設計して、ドアノブも100種類くらいあるカタログから選んで…というように、自分のすごく快適な空間ってのをつくっていきました。

まあそこで…絵を描いたり学校の新聞とかを徹夜でデザインとかやるわけ、小学生なんだけど。

僕のその部屋はね、朝の5時くらいに太陽の日が、ばーっと当たるんですよ。それで僕の部屋は自分でペンキで白に塗ったからね、空間がね、すごくね…。

徹夜して仕事して、仕事っていうか小学生なんだけど(笑)、まあやりたいことやってると、朝になって太陽がばーっとあたってくるでしょ…あの6畳の空間体験っていうのは生涯忘れないですよね。

その光に照らされた時に、将来は絶対に物をつくる人になって生きていこうって悟ってしまった。だからそれは僕の中で大きな大きな体験です。

その後、建築の勉強をして、フランスの建築家でル・コルビジェというね、非常に僕が尊敬する建築家がいるんですけど、そのル・コルビジェという建築家は”光の教会”っていう教会をつくっているんですけど、そこで…フランスで見た光と、僕が子供の時に体験した光の、光の概念っていうのが全く同じだったんです。

それに非常に感激して、そのときに将来絶対物を作る人になろう、ということを決めました。


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